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『人間関係における「間(ま)」の心理』

親子、友人、夫婦関係を円滑にする為に
 
日 時:2013年10月12日(土)午後2時
会 場:セントポールズスタジオ
講 師:押見輝男 先生 第17代立教大学総長・立教大学名誉教授
 

 
加藤会長:本日はお忙しい中多数のご出席をいただきまして、誠にありがとうございます。
昨年の講師は渡辺校長先生にお願いしました。今年はその渡辺校長先生のご紹介いただき、第17代立教大学総長の押見先生にお願いいたしました。開催にあたりまして、渡辺先生よりご挨拶を、押見先生のご紹介を申し上げます。
 
渡辺校長:私は文学部の教授でありましたが、同時に押見先生が文学部長から総長になられたあとに、私が文学部長を務めました。大学でも仕事上でも、色々なところでご一緒させていただく中で、色々な意味で先生がやられてきたことに本当に尊敬の念をもっているので、ぜひみなさまにお話しを聞いていただきたいと思いました。先生の生き方、先生のこれからの事、立教の良さなども話していただけると思いますが、みんなで良く聞きたいと思っております。よろしくお願いします。
 
渡辺校長のご挨拶の後、押見先生の自己紹介よりお話が始まりました。
 
押見先生:「私について知ってほしい3つの事」
1つ目は先生の体の障害についてでした。
私の体の障害は生後10カ月目にかかったポリオ脊髄性小児まひの後遺症です。高熱が続いて熱がひいたころ、突然両足がマヒして動かなくて、10歳では這いずることしができませんでした。車いすなどはまだ目にすることもない時代でしたので、外出の時は母の背におぶさって出かけました。小学校3年生の始めから丸4年間、肢体不自由児施設に入院しました。そこでのリハビリの結果、脚にコルセットをして両手に杖をつけば、なんとか自立で移動できるようになったのです。つまり、初めて這いずらずに一人で動けたのが10歳だということです。それなりの社会性を身につけることができたのは、親元離れて過ごした4年間の入園生活とそこでの同じ年頃の子どもとの共同生活のおかげだろうと今は考えています。立教新座中高というこの素晴らしい教育環境、ガラスの影響、そこでの共同生活の深い効果というのはみなさんのご子息にとって間違いなく人生の財産になると確信しています。
 
2つ目は先生の座右の銘「君子は豹変す」についてでした。
君子、つまり真に徳のある人。たとえ誤りを犯しても素直にすぐにそれを認めて改められるという意味です。みなさんはどうでしょうか?たとえば、ご子息から過ちを指摘された時に、素直に感謝して改められますか?一般に人間というのは、特に地位や権力があるとみなされている者は自分の否を認めると、自分の弱さを明らかにして地位を危うくすると思って誤りを認めたがらない。また、世間体とかメンツにこだわって自分の誤りを過度に正当化しようとする。私は人間的弱さを克服するというのが教師にとって最も大切なことだという風に、立教の文学部の教員になって学んで以来、座右の銘としています。
 
3つ目は先生の研究の専門分野のお話です。
私の専攻している社会心理学は、自分以外の人を「他者」といいますが、「他者」がいることで人の心理や行動にどういう影響が引き起こされるかを具体的にデータを集めて明らかにするという心理学の一部門です。45年間学んでわかったことは、「他者」人間というのは、複雑な存在で単純に決めつけることのできないものだということ。どのような関係であれ、相手との間に程よい距離感を保つことが良い関係を継続するコツであるということです。真実・真理はシンプルです。あとで考えるとわかっているということばかりです。わからなかったこと、気付かなかったことが学ぶことによってはっきりとわかる。それが学び教育の本質なのです。
 
大変興味深い「間」のお話に続きました。
 
「間」とは何か?今なぜ「間」「間合い」を問うことに意味があるのかについて述べていきます。
国語辞典の定義では@何かのあいだにはさまれた空間・時間Aことをうまく運ぶうえでの大切なころあいB部屋(たとえば、茶の間) 「間」とは、心理学的にみると2つの意味があるというのがわかります。
1つは、相手と間をつめる。始まるまでまだ間があるというような空間的、時間的、感覚、隔たり。
もう1つは、間が悪いというような頃合い、タイミングの間です。社会心理学で「間」を定義すれば、(他者)との間にとる物理的ないし心理的空間距離のことである。他者とのやりとりの際の反応・行動のタイミングのことである。
 
今の時代は人間関係において適度な間、適切な間合い、程よい距離感をとるのが非常に難しくなっている「どう接していいのかわからない」「グループの中で立ち位置がつかめない」こういった表現を含んだ悩み事が私たちの生活の中で増えていないでしょうか?インターネット、モバイル、ソーシャルネットワークが普及した時代です。一昔前まで固定化していた、はっきりとしていた身分、役割、人の接触範囲、境界線がどんどん流動化、希薄化していて、それまで役に立っていた人間関係のマニュアルが役に立たなくなっている時代です。したがって「間」「間合い」などの人間関係に関して新たに学び、身につけなければならない生活の中にあります。
教育界で問題になっている「体罰」ですが「自分は悪意からやったのではない、よかれと思ってやった」「ついつい指導に熱が入り過ぎた」と弁明しています。その言葉にウソは無いと思います。その弁明の背後に自分本位で自己中心的な思い込み、生徒のことを配慮できない姿勢が見え隠れしていて、日常、生徒との間に適切な「間」がとれていなかったということです。
 
そこで先生は社会心理学における「間」の研究を3つご説明して下さいました。
 
1)対人距離の研究
人と人との間の物理的空間距離をテーマとする研究です。
自分のからだの周りに、ある程度の広さの物理的空間を確保して常に維持していたいという傾向があります。それを個人空間、パーソナルスペースと言います。何もない広い部屋の真ん中に一人で立ち、離れた所から見知らぬ人がこちらに向かって近づいてきたときに不快に思い、もうそれ以上近づいて欲しくないところでストップの合図を出し、毎回見知らぬ人が接近してくる方向を変えて調べます。ストップの合図の有った箇所を線で結んでみると、その空間が卵を横から見たような空間領域になります。前方は前に大きく広く、側面は縮んできて、後ろはかなり縮んで狭い、そういう空間です。面白いところは後ろが著しく縮んで狭いということで、他人が過度に接近しても後ろ側だと不快にならないということです。人間の持っている個人空間は動物の縄張りと違い、持ち運び自由で伸縮自在です。相手との関係に応じて個人空間は伸びたり縮んだりする性質があるということです。性格的には内向性の人のほうが外向性の人よりも個人空間は広い。他人との接触を極端に嫌うシャイな人、対人恐怖症の人はもっと個人空間は広い。男女差もあって、女性の方が狭いというように報告されています。男性は見知らぬ人物が自分の正面の席に座ると不快になる。女性は見知らぬ人物が正面よりも横に座られると不快感が募るそうです。「間」を開けたがる心がわたしたちの中にはあるということを示唆しています。
 
2)対人魅力の研究
2つめの研究分野は他者への心理的な接近を問題とする対人魅力の研究です。
他人、他者、相手に対しておぼえる好意量・愛情量の強さを左右する要件・条件とは何かを集中的に分析している分野です。
人は、自分の側近くにいる人に好意や愛情を覚えて、離れて遠くなる人には「去る者は日々に疎し」のことわざのごとく、好意量や愛情量が減少する傾向があります。
立教新座中学校・高校の父兄会で集まった時に最初にできた友人はどういうきっかけでしたか?意外とその時たまたま隣り合わせに座った人だったということが多くありませんか?
愛情こそ他者への接近を熱望する心理、「間」を詰めたがる・狭めたがる心の典型です。広く愛情というのは3つの要素からなっていて、心を通い合わせたい、親しみたいという親密感と、心だけでなく身も体も一体化したいという熱情と相手との関係を大切に維持したいという関与からなっているとされています。これらの3つの要素の背後に他者への接近願望があるというのは間違いありません。しかし、イエスキリストの愛は見返りを求める愛ではない。立教で私は学びました。亡くなられた大久保司祭はイエス様の愛は待つ愛と名づけられています。私は愛の力をはっきりと、愛の精神を大事に思える感性を養うことこそ立教の生活を通して得られる大事な心の財産だというように考えています。
人は具体的に他者との距離を狭め近づきたいとする傾向、間を詰めたがる傾向が私たちの中にはあるということです。
 
3)対人コミュニケーションの研究
人と人との間のコミュニケーションを扱う分野を対人コミュニケーション研究といいます。間に関する面白い研究テーマがあります。
1つは、説得によるリラクタンスという反発解除。
たとえば、ご子息が朝学校に行く前に、たまには早く帰ってきて家の手伝いでもするかな?と思っていた矢先に、親御さんがたまには早く帰ってきて家の手伝いでもしなさい!と強い口調で言うと、急に反発感情が沸き起こってきて、今日は絶対寄り道して遅く帰ってくると心に決めて家をでるような例です。こういう反発感情をリラクタンスと言います。自分の判断でことを決めるという事柄に他者が度を越して踏み込んでくる時に起こる反発感情がリラクタンスです。子供の親に対する反発感情の原因の一つは親の踏み込み過ぎです。他者との心理的接近を考えるうえでもっと重要なコミュニケーション練習は何かと言うと、<自己開示>です。
<自己開示>とはことばにだして言わなければ相手には伝わらない自分の思いや考えや体験を正直に語る行為のことです。社会心理学において見事な発見としてわたしが評価しているのは、「開示は開示を招く」という伝報性効果です。自分が相手において表面的な当たり障りのない話ししかしないと、相手もそういう話ししかしません。ですから、相手の心を開かせたい、こどもの本当の気持ちを知りたいと思った時には、自分自ら、親自ら相手に対して深い自己開示を先に率先してするということです。こどもがこの頃何も話さなくなったとお嘆きの方がいらっしゃったら、自分がこどもにこどもがいないときの出来事を話しているか点検してください。
人と話をするときには最初は表面的な自己開示で始めて、後で深い自己開示を行うというのが無難な筋道です。タイミングを間違えて、過度の自己開示、衝撃の告白をすると相手から受け取る好意は低下するということがデータで示されています。人には他者との関係において間をあけたがる心、距離を置きたいという心理、反対に間をつめたがる心、距離を狭め近づきたいという心理が働いていて、私たちは両者のせめぎ合いの中で両方の力を調整・折り合いをつけながら生活をしている。そして、どちらか一方に比重がかかりすぎるとトラブルが起きやすくなるということです。 人間関係のコツとは、適度な間、ことばを変えると、つかず離れず・不即不離の距離感を保つことにあると言えます。「親しき仲にも垣を結え」という諺です。夫婦でも親子の間でも微妙な距離感を保つことが大切だと自戒しています。では、程よい距離感を保つためには具体的にはどのようなことをこころがけたらよいのでしょうか。
 
先生は共感性・ユーモア・自己のフォーカスの研究と自己コントロールの研究より適度な「間」の取り方を教えて下さいました。
 
<共感性>には同情(感情移入)と視点取得という2つのタイプがあります。同情(感情移入)というのは、相手は自分と同じ考え・気持でいるはずだと一方的に思い込む。自分の思い・考えを相手に押し付けるという見方、間のとれていない見方。これに対して、視点取得という共感性は自分の気持ちや考えと距離を置いて、つまり間をおいて他者を見ることを言う。
<ユーモア精神>は、1つは日常生活の現実の論理を一時的に離れて見ることができるかどうか。もう1つは、置かれている状況を退いて客観的にみることができるかどうかです。
状況ではなく、自分自身に対して距離を置いてみることを<自己フォーカス>と言います。自分に対して間をおいてみることです。普段の人間関係から離れて、異質の人達と交わることの体験により促進されます。学校教育の良さというのはどこにあるかというと、この自己フォーカスを高めるところにあります。渡辺校長が3.11の時に、「時には海を見よ」という名言を書かれて、さすがだと感銘したのですが、「時には海を見よ」という精神と相通ずるところがあると思います。
<自己コントロール>というのは、意志の力、自制心のことです。わたしがこの研究で感動したことは、<自我消耗>という現象です。<自我消耗>というのは、自己コントロールを働かせるための心のエネルギーがなくなって枯渇して消耗してそれ以降一時的に自己コントロールができなくなる状態を<自我消耗>と言います。エネルギーが「キレる」という事態です。「適度な間をとる」には、近づきたい衝動つまり、間を詰めたいという心と離れていたい衝動、間を開けたいという心の両方を適切におさえる必要があるわけで、適度な間をとるというのは人生の自己コントロール管内にあるかと言えます。なにが大事な課題かという順位を決めて自己コントロールのエネルギーをうまく利用するというのが上手な大人の生き方ということです。小さな我慢体験を積み重ねることで増やすことができます。日記や家計簿を毎日きちんとつける。毎日、体重計にのる。意識して姿勢を正して歩く、座る。時には意識して甘いものやお酒を1日我慢する。こういう体験を積み重ねるだけで自己コントロールのエネルギーを増やすことができるということがわかっています。こういうことを意識的に努力すれば良いというわけです。
 
最後に立教らしさについてお話して下さいました。
 
立教の特徴・特色は何か。私の結論は、「立教はあいまいである」ということです。聖書というのは、あいまいを消そうとしない。神以外は絶対化しないで何事も相対化して見ようとするので、真実はいずれ明らかになるだろうと考えて、矛盾をそのまま受け入れる。聖公会はプロテスタントに属していますが、カソリックの良さも同時に受け入れる超あいまいな宗派です。わたしが考える「あいまいと」は、何事も急がない。何事もおそれない。何事もしなやかに考える。そういう姿勢です。適切な間というのは間を詰めたがる心と相反する間を開けたがる心のいずれも絶対化しないで両方の心の力を受け入れて、バランスをはかること、実現するというものであれば、「不即不離の間」こそ「あいまい」そのものである。そしてそれは立教らしさのあらわれでもあると考えている次第です。ご清聴ありがとうございました。
 
最後にポスターですが、出来上がって見せていただいた際に大変感激いたしました。作ってくださった方は、私が総長を辞める年に立教小学校でお話をさせてもらった時に、話しを聞いてくださった方が熱心に作ってくださったそうです。こういう絆を大変嬉しく思います。この場をかりて御礼申し上げます。ありがとうございます。
以上です。
 
 
押見輝男氏:プロフィール
1944 年神奈川県横浜市生まれ。立教大学文学部心理学科卒。
同研究科修士及び博士課程修了後、
1988 年より同教授に就任、
2002 年より立教大学総長を4年間務める。
専門は、実験社会心理学。心理学を心の学問=行動の学問と唱える。「異質な他者と出会い向き合う事で、人間は自分らしくあろうとする」と言う「自己フォーカス論」を唱える。 また街中でコーヒーを飲みながら人間観察をするのを好むという一面もある。
 
主な著書
「自分を見つめる自分」(サイエンス社)
「自己の社会心理」(誠信書房)等