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「ブランドを手放して生きる」

 息子を ‘つまらん男’ にしないために
 
日 時:2014年10月11日(土)14時〜16時
会 場:セントポールズスタジオ
講 師:小島慶子様
 
 
小島先生:私が今日ここにおりますのは、渡辺校長先生の著書「時に海を見よ」の解説を書かせていただいたのご縁です。渡辺先生が卒業生に向けて送った送辞の言葉に出会い、お会いしたいと思っているうちに、色々なご縁を頂きラジオ番組で共演したりという事で本日につながりました。
なぜ、渡辺先生のお話しに胸を打たれたかといいますと、私もブランド私立の中で育ちましたが、東日本大震災、そして原発事故がおきた時、あのブランド女子校に行ってもこの災難を免れる特権は得られなかったという事を思い知ったからです。あのとき、「生きる力」とは何か、何が必要かを突きつけられました。予測しえない大きい災害や出来事が起こった時に、何がその人を守るのか、自分の手を離れた子供に最大限与えてあげられるものは何なのか、自分の生い立ちを含めて考えました。

ちょうどその時にツイッターで渡辺先生の送辞のことを知りました。立教という日本の社会で大変恵まれた環境で学んでいる子供達に対して、「もしかしたら君が貧困に陥るかもしれない。もしかしたらこの荒れ狂う海を見て、今まで全く予想もしていなかった世界に、非常に困難だと知りながらも漕ぎ出して行かなくてはならないかもしれない。でも貧しさを恐れるな、負けるな」と言っている校長先生がいる事を知って大変共感しました。日本の恵まれた環境の中で育った男の子たちに、この先は見通しがきかないから、良い所を取って逃げ切れよと言っても不思議ではないときに、この校長先生は、何故このようなメッセージを送ったのだろうかと非常に興味深く思ったのです。こういう人が日本を変えるのだなと思いました。

貧困問題に取組んでいる方にお話を聞きますと、今一番取り組まなければならない事は社会で弱者と言われる人達の支援ではあるけれども、恵まれた暮らしをしている人たちが世間から勝ち逃げ組と言われ、SNSで発言しても匿名で批判されてしまい、口をつぐんでしまうのも問題だと言います。恵まれているなら発言できないというなら、突き詰めれば、世の中で一番無力で無学で立場が弱くて声をあげられない人しか発言できないという大きな矛盾が生じてしまいます。世の中を変えられる立場の人、発信できる立場の人、発信したメッセージを行動に移して実際に世の中を変えるアクションにつなげられる立場にある人達が「勝ち組」と批判されるからと口をつぐんでしまったら、日本は変わりません。

私も帰国子女、学習院、女子アナ出身で、きっと稼いでいるだろうから人の苦労は分からないだろうと思う人もいるでしょう。事実、私は貧困の苦しみは知らずに育ちました。でも、私なりの苦しみや喜びはあります。利害が一致しない人とも一緒に平和に生きてくためには、どんな世の中の仕組みが必要なのかを一緒に考えたい。ですから私は自分の実感に基づいて、ものを書いたり話したりすることを止めません。先生がなさったことも、多分そういう事じゃないかと思いました。震災後にみんなが不安になってこれから日本はどうなるのだろうという時に、すがりつきたくなるのは、「勝ち組」という最後の安全切符です。日本は経済的にも教育格差もひどくなり、震災も原発事故も起きてこの先どうなるかわからない、よし、どうにかして勝ち逃げしよう、とみんなが思っている時に、先生がそんな切符はないと言ったのです。

恵まれた環境の中でこそ身につけられた見識とか勇気、考える力がある。それを自分が世の中で経験した事のないような、経験する予定のなかった困難に立ち向かった時に、他の人と手を携えて世の中を変える力にしなさいと。きっと「立教なんかで教えてる奴に何がわかるんだ!」なんて声があったかと思います。でも、先生はあのときに卒業生に「貧しさを恐れるな」とおっしゃった。大きな災害のさなか、人がみんな不安な思いでいた時には、誰かを攻撃して悪者にしたいというささくれだった気持ちが大きくなります。けれどそれを恐れず真摯なメッセージを送った渡辺先生の言葉に、たくさんの大人が勇気づけられたのだと思います。まだ私たちには出来る事があると。それまでは、自分の息子を立教に入れ、立教人脈を使って人より恵まれた社会的地位を手に入れるための切符を与えたと思っていた親たちが、先生が言うように立教という切符が通用しなくなる社会で、むしろ役に立つような能力を自分の息子に与えなくては、と発想を変えるように、そういう新しい視点を先生が卒業生とその親たちに示した事に共感しました。
名門校で学ぶという事は一つのブランドを手にすることでもありますが、そのブランドを理解してくれる人達の中でのみ評価されて、そのブランドを理解してくれる人達だけをたどって生きていくためだけの切符に過ぎないとも思います。私自身を振り返ってみても、自分は学習院という「超選ばれた学校」で特権を手に入れ、人生得をしているのだ、と信じておりましたが、仕事上ではそれがむしろ自分の世間を狭めていることに気づきました。学歴というのは、手にしたら忘れるべきものなのだ。手にした学歴を忘れた人だけが本当に自由な人なのだとつくづく思いました。そうでないと狭い世界に閉じこもって、自分だけが優れていると言い張る了見の狭い人間になってしまうと思います。皆さんも、誰かと会った途端に出身校や住んでいる場所を聞くのではなく、その人と実際に話しながら、信用できるとか説得力があるとか共感できるかを判断する訓練をしてみてください。私はやってみましたが、すごく面白いですよ。

一貫教育の恵まれた環境にいるとどうしても似たような価値観や金銭感覚の人でないと話が合わないと思い込み、子供を囲い込んでしまいます。でも本当は相手にどこの学校かとか、親の職業はとか聞かずに相手を信用できる、話が面白い、センスがいいとかで人を判断出来る人になるという事が子どもにとっての武器になるのです。どんなに社会的地位が高くても、相手の年収や学歴を気にするつまらない大人は沢山いますから。全くバックグラウンドが違って、自分が今まで出会った事のない人々の中に放り込まれた時に誰を信用するのか、誰の話が豊かで教養に裏づけられているか、誰がずる賢くて誰に用心するべきなのかを肩書きでないところで判断できなければ、豊かな人間関係は結べませんし、生き残れません。そういう意味では、実は一貫教育で育って、あたかも最強の切符を手にしたかのような人達は、ブランドが通じない場所では非常に脆弱なのです。

私があったつまらない男(病院版)のお話をします。私はあるアレルギーになって原因を調べるために私大の皮膚科に検査入院をしました。担当の皮膚科医は私大の付属から進学してきた方でしたが、彼の話は学歴や成績、肩書きのことばかりでした。医学部では心臓外科医になるのがイケていて、眼科医や皮膚科医は医学生の中ではダサい、とか。皮膚科に入院している私から見たら皮膚科の先生はスーパースターです。そんなお医者さんの内輪のヒエラルキーなんて関係ないと思いました。高度な勉強をしてきたのだろうけど、私からしてみたらこんな話ばかりする先生は信用できないと思いました。信用できる先生とは知識の量や肩書きでなくて、自分とは全く違う世界の中で生きている人、つまり患者さんに共感して、信頼を得て、問題を解決できる人だと思います。相手を見て色々な関係の結び方を出来る人は信頼されるし、生きていく場所も広いと思います。私は、ああこの若い先生が「自分が知っている世界はごく一部なのだ」と知り、全然違う人との間で共通点を見つけ、問題解決のために何が協力できるだろうかという視点を獲得したらどんなにいい男に、そしていい先生になるだろうかと考えました。

自分の子どもが生まれ、1歳で近所の幼児教育スクールに入れようかと思った時に、周りのお母さん達が1歳の子どもをこのさきどうやって慶応幼稚舎に入れるかという話をしていました。その時、自分の子供の格付けで他のお母さんと競い合う人生を送るのか?と考えて、そんなのは嫌だと思いました。私が長男と出会って11年。次男と出会ってまだ9年です。まだそんな関係ですから彼らがどんな人かよく知りません。この人が誰かをわからないのに、最初から親の理想通りの誰かにしようと思ったら、もともとすごく面白い人かもしれないのにわからないで終わってしまうと思いました。だからといってお受験が悪いわけではありません。何のために受験するか。学校は何なのかという価値観の問題だと思います。

皆さん子どもを持った時から、「親ばか」という最も幸福で最も治りにくい病にかかっていますから、うちの子が一番かわいいと思いますよね。立教がどれだけ有名でどれだけ立派な学校か知らないが、うちの息子の素敵さに比べたら!うちの息子のほうが立教より偉い!という事でいいと思います。彼は世界に一人しかいなくて、St.Paulである前に、最初から「誰か」なのだから。子供を信じてあげられなかったり、自分に自信を持てなかったりすると、人は学歴とかブランドとか人脈に頼ってしまうのだと思います。でも、先生もお書きになっていましたし、皆さんもおわかりと思いますが、この先いつ何がどうなるかわかりません。みなさんのお子さんがこの先誰と出会ってどんな仕事をするのかわかりません。
その時に「日本の立教を出ました」と言っても「どこ?」と言われる可能性はかなり高いです。でもその時に、彼は面白い奴だ、彼はなかなか信用できて一緒に仕事すると超面白い奴だ、という人であれば立教が何かを知らない相手とでも生きていけます。 

私が出会ってきたつまらない男たちは、地位が高かったり、有名な人であっても、初めて会った自分とは違う学歴や世界に生きている人に対して何の興味も持たず、関心を持たない人達でした。どこで学ぶとかどんなブランドを持っているのかという価値観だけに凝り固まるとつまらない男女になります。その人たちは環境が変わると生き残れません。
ある有名メーカーで多くのリストラが行われたとき、再就職できた人とできなかった人との違いがあったそうです。再就職できた人は50代なかばでも再就職して重用された反面、若い人でも何社受けても就職できなかった人がいる。自分は○○社の社員でした!と面接で言う人は、なかなか再就職が決まらなかったそうです。年齢では不利だと思われる人でも、過去に困難が会った時にこの取組み方をして結果を出しましたとか、こういう人達と協力して新しい物を作りましたとか、企業名や肩書きではなく自分のやった事を語れた人は、あなたと一緒に仕事をしたら楽しそう、新しい世界が見えそうだと再就職が決まったそうです。

親が子供に言ってあげられる事は「入ろうと思っていた学校に入れなかったり、安泰だと思っていた会社が潰れたり、できると思っていたプロジェクトに関われなくなったとしても大丈夫。これがダメならあれでもいいのだよ。君にとって何が喜びで、どんな形で人と繋がるのが豊かなのか、そこさえ押さえておけば、その時自分が手にしている条件の中で一番それに近いものをやっていけばいい」ということです。今、自分がどんな形で人と世界と繋がりたいのかという事をわかっていれば、手持ちのコマの中でどれを選ぶべきか、その時おのずとわかるはずです。ブランドは大事にした方がいいけど、すがらなくても君は生きていける。St.Paulじゃなくても君は最高にかっこいい、St.Paulは君に感謝するべきだ。と言ってあげる事が、もしかしたら学校では教えてもらえない、親にしか言ってやれない事かもしれないと思います。

私は、この2月から、私の生まれた場所、オーストラリアのパースで子どもを育てています。子ども達の同級生は、宗教も人種も違うし、難民、留学生、駐在、地元のお金持ち、地元の商店の子供など、バックグラウンドも違います。色々な人のいる中で、これさえあれば全員に信用されるブランドなんて無いのだなと感じます。本を読んで共通の知識がある、勉強ができる、足が速いとかそういう事は世界共通です。とは言え、ある人から見たら価値のあるものも別の人から見たら全く知らない物だし、この世にたった一つこれだけ持っていれば絶対大丈夫なんてファストパスはないのだとつくづく思いました。

息子たちは引っ越した初日に色々な国の子供達がいる教室にハローと入って行って、下校時に迎えに行ったら言葉が通じない中、笑顔で帰ってきました。その息子達に教えられた気がします。大人でも初めて出会った何の共通点もない人達と半日過ごして笑って出て来られる力があれば、きっとなんとかなる。私も夫もオーストラリアでは言葉が上手ではないし、知り合いもいないけれど、きっとなんとかなると勇気がわきました。その時、人から信用されるとは、歓迎されるとは何だろう、一緒にいたい、明日も会いたいと思われる人間とはどんな人物だろうと、子供達の姿を見て考えました。ですから親は安心して子供を信じていいと思うし、そんな力があると励まし続ける事で、子ども達もやがてどんなところに行っても自分の足で歩けるようになるのではないかと思います。

今日は、是非皆さんに、最近私が学んだ事を共有して欲しいと思います。
皆さんもご存知と思いますが、日本は先進国の中で子どもの貧困率が15%以上と、驚くほど高いのです。それは日本の平均的な所得に比べて相対的に貧困のレベルにある子供が多いという事です。特に女性の一人親だったりすると、親子共に明日食べるのに精一杯という大変しんどい状態の中で生きている子供達がたくさんいます。そういう中で育った子供達と皆さんのお子さん達はやがて出会います。同じ社会で同じ世代で、一緒に世の中を作る仲間になります。親がどんなに我が子と彼らとの接点がないようにしていても、彼らはいつか必ず出会います。そして一緒に社会を作らないと日本の社会は立ち行かなくなります。
ですから、もし皆さんが自分の息子を「変な子供」と知り合いにさせたくないとか、教育を十分に受けていない子供と交わらせたくないと思うのであれば、例えば寄付をするとか、子供の貧困について学ぶとか、ボランティアをするとか、自分の子供とは全く違う環境の中で十分な教育の機会を得られないでいる子供達に何か支援をして下さい。
それは見せかけの慈善事業ではありません。その子達と皆さんの息子さんがやがて出会って一緒に世の中を作る事になるのですから、その環境整備のための投資です。ご自分のお子さんとまったく対極の環境にあって教育の機会に恵まれず、経済的にも非常に困窮した中で、あるいは十分な愛情も得られず、そうした中から大人になった人達が、この日本の社会に希望を持てるように、他の人と協力して世の中を良くしていこうと思えるような環境を作ってください。それはみなさんの息子さんが必ず出会う人達を皆さんが育てるという事でもあります。

支援を受けた人は、子供の時はわからなくても、大人になった時に、自分が誰に助けてもらってここまでこられたかという事に気づくチャンスは必ずあります。残念ながら身近な大人は自分に対して暖かい手を差し伸べてくれなかったけれど、会った事のない人達が自分を見ていてくれた。自分の事を心配して何かをしてくれた。この社会は自分を見捨てたのではないと信じられる。そう思って大人になった人は社会に対して関わり方が違ってきます。ですから、出来る範囲でよいので、自分の息子と一番遠いところにいる子供に、自分の息子と同じ位に目をかけて気持ちをかけてあげて下さい。

私もそういう視点が足りなかったと学びました。私にできる事は、寄付するとか、こういう話をするとかかもしれないけれど、それをしないよりもした方がきっと、私の息子達が出会う誰かと息子たちの関係は豊かなものになるだろうと信じています。かなり経済的に余裕のある皆さんですし、色々な形で社会に貢献する手段をお持ちの皆さんだと思います。どうか今後、いつもそのことを頭の片隅において、お子さんを育てる時にその話をしてあげて欲しいと思います。私も子供達にその話をし始めました。貧乏な人とは話が合わないよとか、無学な人には近寄っちゃいけないよと言うのではなく、そういう環境の中で育って全く言葉や気持ちが通じない人と出会った時に、どっちもが平和に、利益を得ながら生きていく世の中の仕組みはどんな形があるだろうと考えられる人になって欲しい、と。どうかそういう視点で、見慣れない隣人と接する人になって欲しいと思います。

私の知っている人がニューヨークに行った時、教育熱心なお母さんでしたが、道で清掃をしている黒人の男性を指差して子どもにこう言ったそうです。「勉強しないとああなるわよ!あれが嫌だったら勉強しなさい。」確かにそういう面もあります。でも、誰が街を掃除しているのだろう。彼が掃除しなかったらここに落ちているごみはなくならない。彼が掃除しなかったら、あなたが掃除するのでしょうか?しないですよね。彼にとっては確かにあの仕事以外に選択肢がなく、それをとても不本意に思っているかもしれない。しんどい暮らしをしているのかもしれない。だけど子どもに対して、勉強しないとああなっちゃうという言い方をすると、その人を子どもの世界から排斥することになってしまいます。

そこでこう問えばいいと思います。「どうして君は今からママと一緒に美味しいレストランに行くのに、彼らはそこで泥だらけになって誰にも見向きもされずゴミを片づけているのだろう。君と彼の間にはどんな違いがあるのだろう。君と彼がどっちも「生きているのはそんなに悪くないな!」と思って生きて行く為には、どんな世の中だったらいいだろう?と、答えが判らなくてもそのお母さんは問うべきだったのではないでしょうか。子供と一緒に考えたら良かったと思います。人生の「正解」を教えようと思うから、勉強しないとああなるのよ、になってしまったのだと思います。

でも多分、生きて行く事はほとんど正解がわからなくて、正解だと思っていた事に全部裏切られて、正解だと思った事が全く不十分で、不安な思いをする事の連続だと思います。ですから、必要なのは、むしろ問う力だと思います。なぜこんなに違ってしまったのだろう、なぜこんなに思い通りにならなかったのだろう、ではどうしたらいいのかと。渡辺先生がお書きになった本にもありますが、なぜだろうと問う力をもってしか、自分ととても違うものとか、想像もしていなかったものとは繋がれない。それは自分の無力さとか物知らずぶりを思い知る事に過ぎないかもしれないけれども、自分の知っている答えだけを見てわからないことは問わずに生きている人よりも、わからない事を問い続けて、同じように問い続ける人と手を携えている人の方が世の中を良くし、仲間も増えるのです。

予測不能な事態が起きた時に、なぜ、と考えないでいる事の方がうんと簡単です。考えずに自分の知っている世界にこもってしまう方が、予測不能なことに出会わずに簡単に生きて行けると思いがちです。でも、世の中にはどんなに自分が頑張っても理解し合えない人がいたり、どんなに自分が心をつくしても、解決できるとは思えないような問題が山積しているのです。ですから、ずっと問い続ける人の方が世の中を良くするのです。

緒方貞子さん(元国際連合難民高等弁務官)にお話を伺ったことがあります。
「世の中から戦争はどうやったらなくなるのでしょうか?」と素朴に聞いてみました。緒方さんは「残念ながら、この世の中から戦争がなくなることはないでしょう。戦争のない完全な平和な世の中は実現しないでしょう。ただ、戦争のない世の中が実現できるはずと信じて行動する人にしか世の中は変えられないのです。」とおっしゃいました。大変感銘を受けました。先日、憲法違反である集団的自衛権の行使が閣議決定で認められたときにも思いましたが、どうせとか所詮とか諦めてしまう事は簡単だけど、どんなに罵倒されても諦めずに、平和は実現できるのではないかとか、もっと日本は暮らしやすい国にできるのではないか、と考える人だけが社会を変えられるのだと思います。なし崩しで物事が決まるときに、こんなのはおかしいと言い続ける勇気でもあります。そう思い続ける事は、とてもしんどいと思います。だってバカだとか現実が見えてないとか言われたりしますからね。斜めに世の中を眺め、「所詮こんなもんで、努力しても無駄ですよ」とわかったような事を言っていた方が洗練されていると考える人がいます。でも、渡辺先生がおっしゃったように、泥臭くて青臭くて物わかりが悪いように見えても、譲ってはいけないことがあるのです。

先生は書きました。徴兵制があったら妻を連れて逃げる男であれと。そんなことをよく書いたなと!その通りです。自分の子供が「ぼくは兵隊さんになってお国の為に死ぬんだ」と言ってる時に、そうだよね、息子良く言った!なんて誰が本心から言ったでしょうか。そんなこと絶対思いません。なのに、万歳しながら戦地に息子を送り出した。でも冗談ではなくて、日常生活のどんな時にもこういう事ってあるんです。この会社は間違ってる、この学校おかしい、この友達のグループおかしい、この国間違ってる、そういう時に青臭くて泥臭くて空気が読めてなくて現実的ではないと言われる意見を大声で言い続けた人だけが世界を変えられるのです。

最後にひとつ震災の時の話をしたいと思います。岩手の小学校に「越喜来(おきらい)小学校」という小学校があります。そこで震災がおきる何年も前から、裏山に続く避難路を作って下さいと言い続けた在校生の祖父(市議)がいました。ここにはいつか必ず津波がくる。今津波が来たら子供達は下の道路まで降りてから坂を上らなくてはならない。それでは絶対助からないから、裏山にすぐ逃げられる300〜400万でできる通路を作ってくれと毎年毎年予算の要求をし続けた人がいました。震災のおきる直前の12月にようやく通路は完成しました。おそらく出来た時には、こんなものほんとに必要なのかなと思った人もいたと思います。結果どうなったかと言うと、越喜来小学校は、正確な数字は忘れましたが、70人余りだったでしょうか…全ての子供がその通路を通って裏山に逃げ、助かりました。そしてその直後にその橋は津波で流されました。残念ながら、橋(通路)を作ってくださいと言い続けた方は、震災前に病気で亡くなっていました。でもその方の4人のお孫さんは全員助かりました。
 
彼が震災の何年も前から「ここは津波が来るから橋をかけよう」と言った時、誰が本気にしたでしょうか。バカにした人はいっぱいいたと思います。でも彼は諦めずに、用心深さは最も勇気がある事だという事を示したのです。それが本当に人の命を救って世界を変えたのです。こういう事が、今とても難しくなっています。異議を唱える事や失言する事が怖くて、思っている事が何も言えない、何か言ったら叩かれるんじゃないか、言った事が間違えていたら二度と発言できなくなるくらいこきおろされるのじゃないかと、口をつぐんでいる人が多い。皆さんのお子さんも皆さんも、自分はこういう世の中に生きたい、自分はこれが心配だ、これは譲れない、それがご自身の実感に基づいている事ならば、想定される正解とか、今メジャーとされる論評ではなくて言わなくてはいけないと思います。

皆さん少しお子さんと考えてみて下さい。どんな世の中に住みたい?君が暮らしたい世の中の為に何が足りないかな、どこが変えられるかな。今、現時点で13や17歳の君にできる事はあるかな。私にはできる事はあるかな?と考えてみて下さい。人からどんなにおまえの経験なんて価値がないと言われても、そこに自分の実感があるのだったら、発言する事を諦めずに言葉を発することができる人になる。そういう人がいないと世の中は変わりません。

冒頭の話しに戻りますが、子供を立教に通わせているような甘い汁を吸っている連中なんかに俺たちに苦しみがわかるのか?黙れ!と言われて、黙ってはいけないのです。そうかもしれない。私の苦しみとあなたの苦しみは全然違って、もしかしたら永遠にわかり合えないかもしれない。だけど、私もあなたも同じ社会で同じ時間を生きていく。では、私の望む幸せとあなたの望む幸せを同時に実現するにはどういう仕組みがあるか考えたい、大事にしたいんだ、話し合おう、と言い続けないと世の中は変わりません。ですから、いわゆる「勝ち組」と言われるここにいる皆さん、そのお子さんには、勝ち組である事を後ろめたく思わないで欲しいです。勝ち組かどうかはそれを勝ち組だと見たい人が決めるのです。それよりも、みんな自分の中に人と比べることのできない喜びや苦しみとか、期待や絶望を抱えていて、それは誰のものも世の中で一つきりで、価値は同じなのだという事を信じて物を見る人になって欲しいと思います。

おそらくこの先、日本は多様な意見を認めない空気になっていくのではないかと私は危惧しています。でも、その時に何と言われようと、自分にとって大切な事、譲れない事は発言していかなくてはいけない。それは正解を言う事ではなく、「問い」なのです。どうしたらいいのだろう、これは間違っていると思わないか?と。どんなに罵倒されても問い続ける力というのは、先生が書かれたように、ブランドや知識の量や生まれ育った環境ではなく、その人が今、目の前にある未知なるものに出会った時にそこから生れ出るものでしかないと思います。その力をどうかご自身のお子さんの中に見つけてください。必ずあると思います。それがその人にとって一番価値のある、言語や文化の違いも超えて人と繋る力になるのだと伝えてあげて欲しいと思います。
以上です。
 

 
小島慶子氏:プロフィール

こじま・けいこ
タレント、エッセイスト
1972年、オーストラリア生まれ。
学習院大学卒業後、TBSアナウンサーを経て現職。
第36回ギャラクシーDJパーソナリティ賞受賞。
出演番組、著書多数。
現在は、家族の生活の拠点をオーストラリアに移し、仕事で日豪を行き来する生活。
最新刊は『解縛(げばく)〜しんどい親から自由になる』(新潮社)
幼少期からの家族との葛藤や摂食障害、不安障害について率直に綴っている。