チャペルアワー礼拝 クリスマス礼拝

 
第1部 礼拝

日 時: 2017年6月3日(土)14:00〜15:00
場 所:立教学院聖パウロ礼拝堂(立教新座チャペル)
 
司 会:小林 哲 副会長
出席者:57名
 

挨拶:桜井 斗人 会長
セントポール会へのご理解とご協力ありがとうございます。日頃生徒たちが参加している礼拝を保護者の方達にも体験していただきたいと思います。第一部の礼拝の後、第二部としてジャズ研究会によりミニコンサートを開催させていただきます。よろしくお願いいたします。

挨拶:村上 和夫 校長 
暑い日にたくさんの方にお集まりいただき有り難うございました。生徒たちは毎日ではありませんが礼拝から一日を始めます。毎日、毎回同じ形で行われる礼拝には、自分を原点に戻していく力があります。そのことが卒業してからも、立教とはチャペルであるという思いにつながっていると思います。ぜひこの「変わらないもの」を体験してください。


 

司 式 :金山昭夫チャプレン
パイプオルガン奏者:佐藤雅枝さん
聖書朗読:ハネによる福音書13章31節〜14章7節
高校3年学年副委員長 角田弘子さん

 
奨 励:ベレク・スミス チャプレン
「道、真理、命」

本日チャペルアワーにいらして下さり、ありがとうございます。チャペルアワーと言うのは立教学院で行なっているものだけではなく、多くのキリスト教学校が長い歴史の間、重視してきたことの一つです。学校ではもちろん授業などで頭の訓練をします。体育の時間、スポーツの部活などで体の訓練もします。しかし、人間には頭と体だけではなく、心もあるので「キリスト教に基づく人間教育」をする時にはこのようなチャペルアワーの時間などを持ちます。チャペルアワーで音楽と言葉が体に響き、頭で理解し、心で悟ることを望んでいます。

さて、今日の読んだ聖書箇所で、イエス・キリストは彼の弟子たちに話しています。これはイエスが十字架に架けられる前の日のことです。今ではその日のことを教会歴では聖木曜日と呼んでいます。これがイースターの前の木曜日のことです。

この2千年ほど前にキリストが弟子たちに「わたしは道であり、真理であり、命である」と言った時、それに続いた聖金曜日の出来事に矛盾を感じるかも知れません。

キリストがその時に歩んだ道は十字架の道。ラテン語ではこの道のことをvia dolorosa「苦難の道」と言います。真理であると言いながらもそもそもユダヤ人によって死刑にされた理由は彼が自分が神様であると言う偽りを述べたと訴えられたからである。そして、命であると言いながらもキリストはその次の日に十字架で死にました。

そのような道、真理、と命を望む人はいないのではないでしょうか。実に、
キリストの弟子たちも一人残らずしてキリストから逃げ去ったのです。しかし、ここですぐに弟子たちのように逃げ去ることをしないで、少しだけキリストがわたしたちに示した道、真理、命を振り返って見ましょう。

まず、キリストが「道」と言う時に何のことを言っているのでしょう。「道」と言うのは聖書に限らず様々な宗教で使われる概念です。聖書で使われる場合、「道」とは一人一人が心の中の思いとそれに伴う日々の行動によって歩んでいる道のことを指しています。キリストご自身が「道である」と言うのはキリストが本来人間が歩むべき道を行いと言葉と思いにおいて実現してきたと信じています。

キリストが自ら歩んだ道、そしてわたちたちに教えられた道というのは今日読んだ聖書箇所の最初の部分にありました。弟子たちに言われました、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」ここで「愛」と言っているのは、気持ちのことではなく、愛の行いと言ってもいいかと思います。互いを愛し合うことは、自分よりも他の人たちを大事に思い、その人たちに使えることだと思います。

互いを愛し合うことが命じられていますが、それは具体的にどう言うことでしょうか。人によってはこの命令を読んで、そこから勝手いに自分の想像力を使って「人を愛する」ことを決めつけることがあります。しかし、2000年前のユダヤ人であったキリストの教えを読めば具体的に「互いを愛し合う」ことは今から3500年ぐらい前に生きたモーセと言う預言者が書き残された律法、十戒(申命記5:1-22)とその十戒を細かく適用していく旧約聖書にある律法全体、に剃って歩むことだと思います。

ですから、神と隣人を愛することが律法の全てを要約したものです(マタイ22:34-40、ルカ10:25-28)。モーセの十戒がその愛の掟の適応と考えるのが正しいと思います。モーセの十戒と言えばわかる人もいるかも知れませんが、短縮すれば次の通りです。

1)主なる神の他に神があってはならない。
2)偶像を作ってはならない。
3)神の御名をみだりに唱えてはならない。
4)安息日を守りなさい。
5)父母を敬いなさい。
6)殺してはならない。
7)姦淫してはならない。
8)盗んではならない。
9)偽証をしてはならない。
10)隣人のものをむさぼってはならない。

これらのことが隣人をすることによって神と人とを愛することができるのです。モーセの律法ではこの十戒に従って色々な細かい律法が連なってきますが、キリスト教ではその細かなモーセの律法からは自由にされています。だからと言って、何をしてもいいわけではなく、キリストの教えはモーセ以上に厳しいところがあります。なぜなら、キリストは山上の説教でこう言っています。

「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイ5:27-28)

キリストがしていることはモーセの律法を元にしてそこから私たちの行動だけではなく、心の思いまでが清められることを追求している。ですから、わたしたちもこのチャペルアワーではただ単に人に見られるような行動のことを考える時ではなく、一人一人の心の思いを自分自身に正直に見つめることが求められます。最終的に、心にある思いが言葉と行動を通して神と隣人に対して現れます。ですから、私たちの心まで至らない律法は最終的に行動を変えることはできません。

先ほど「自分自身に正直に」と言いましたが、真理がなくては正しい道を歩むことはできません。真理というのは悪いことをする人にとって敵であります。しかし、良いことをする人の味方であります。キリストは自分の行いと教えによってわたしたちに正しい道を示しているが、正しい道を示すことによって必然的に自分たちの良さも悪さも発覚します。真理であるキリストにわたしたちが直面した時、自分自身のことを振り返って見なければなりません。そして、真理を拒む人はキリストをも拒みます。しかし、愛の道に歩んでいるのであれば真理を拒んだり怖く思ったりしません。逆に、真理に惹かれます。

この愛に基づいた真理の道に歩む人に命が与えられます。モーセの十戒の5番目の命令では「父母を敬う」ならば長く生きると書いてあります(申命記5:16)。原則としてはその通りだと思います。父母は子供にいいものを与えようとするので、親を敬う人は原則として長く生き幸せになることが多いと思います。逆に、父母を敬わない人は幸せも少ないかと思います。しかし、キリストはわたちたちの肉にある父母だけではなく、天の父を敬うことによって永遠の命が与えられると言っています。キリストは天の父から出られ、天の父からこの世に送られたのもわたしたちに永遠の命を与えるためなのです。

イエス・キリストが「道であり、真理であり、命である」と言っているのそのような意味が含まれると思います。キリストが教えた愛の掟に沿った道を歩むことが何よりも大切だと思います。しかし、愛の道はキリストを十字架へと導きました。周りにいる罪人を愛するのは決して簡単なものではないのです。モーセの十戒を全部いっぺんに守ることもたやすい話ではありません。4世紀に生まれた教会の教父であるアウグスチウヌスは今日読んだヨハネの福音書の箇所についてこう書いています、「足を引きずりながらでも道に従って歩くことは、元気よく道から離れて歩くことよりも望ましい」(Melius est enim in via claudicare, quam praeter viam fortiter ambulare)。バッハのカンタータ78番「Jesu, der du meine Seele」の番目の曲(「Wir eilen mit schwachen」)にも出てくるテーマです。

愛の道を心から歩む人は、たとえ足を引きずりながらでも真理に対面し、その真理に正直に対面することによってやがて死んだとしても命、永遠の命が与えられると信じています。モーセとキリストが教えられた愛の道を一緒に歩んで見ませんか。

 

聖歌390番「栄えにみちたる」
聖歌540番「アメージンググレース」
聖歌390番「いつくしみ深き友なるイエス」

 
 
 

第2部 部活のコンサートについては 「チャペルアワー コンサート」のページをご覧ください。